

はじめに
相続遺言専門の司法書士として、日々多くのご相談を受ける中で、「遺言書さえ書いておけば安心」という誤解に出会うことが少なくありません。しかし、海外、特にアメリカのエステートプランニング事情を見ると、すでに「遺言書だけでは不十分」という認識が広がり、より高度な対策への移行が進んでいます。
2026年2月、アメリカの大手エステートプランニング企業Trust & Willが発表した最新レポート「2026 Estate Planning Report」は、そうした変化を如実に示すデータに満ちています。本記事では、このレポートの内容を詳しく紹介し、日本における相続対策への示唆を考察します。
Trust & Will 2026年エステートプランニングレポートの概要
Trust & Willは、2026年1月28日から2月5日にかけて、アメリカ全土の成人5,000人を対象に調査を実施しました。この調査は、遺言書、信託、医療委任状、財産管理委任状、HIPAA認証といった主要なエステートプランニング文書の所有状況、世代別の傾向、AIへの信頼度、家族とのコミュニケーション状況など、多岐にわたるテーマをカバーしています。
衝撃のデータ:遺言書所有率が1年で5ポイント減少
最も注目すべきデータは、遺言書(Will)の所有率の変化です。2025年には31%のアメリカ人が遺言書を持っていましたが、2026年にはこれが26%にまで減少しました。わずか1年間で5ポイントもの減少です。
一方で、信託(Trust)の所有率は11%から14%へと3ポイント上昇しています。また、医療委任状(Medical Power of Attorney)は15%から19%へ、HIPAA認証は8%から10%へと、それぞれ上昇しています。
これは単なる「相続対策離れ」ではありません。むしろ、「行動を起こす人々が、より包括的な対策手段を選ぶようになっている」という質的転換を示しています。
なぜ信託が選ばれるのか?
信託が遺言書に代わって選ばれる理由は、主に以下の4点にあります。
プロベート(検認手続き)の回避
アメリカにおいて、遺言書による相続には「プロベート」と呼ばれる裁判所の検認手続きが必要です。これには数ヶ月から場合によっては数年かかることもあり、費用も高額です。信託を設定しておけば、このプロベートを回避し、迅速かつ低コストで資産を承継できます。
プライバシーの保護
遺言書は裁判所に提出されるため、公開記録となります。誰がどれだけの財産を相続したかが、第三者にも閲覧可能です。一方、信託は私的な契約であり、内容が公開されることはありません。
複雑な家族構成への対応
再婚家庭、ステップファミリー、事実婚のパートナーなど、現代の家族構成は多様化しています。信託は、こうした複雑な関係性にも柔軟に対応できる設計が可能です。
認知症リスクへの備え
信託を設定しておけば、委託者(財産を託す人)が認知症などで判断能力を失った場合でも、受託者(財産を管理する人)が継続して財産管理を行えます。遺言書では、生前の財産管理機能はありません。
世代別の特徴:最も無防備なのは「ジェネレーションX」
調査結果で特に注目すべきは、世代別の傾向です。
ジェネレーションX(現在40代〜50代)
最も無防備な世代として浮かび上がったのが、ジェネレーションX(Gen X)です。この世代の62%が、エステートプランニングの文書を一切持っていません。これはGen Z(54%)、ミレニアル世代(58%)、ベビーブーマー世代(48%)のいずれよりも高い数字です。
Gen Xは、働き盛りで子育て中、かつ高齢の親の介護も視野に入り始める「サンドイッチ世代」です。多忙さゆえに自分自身の相続対策が後回しになっている可能性が高いと考えられます。
ベビーブーマー世代(現在60代〜70代)
ベビーブーマー世代でも48%が無対策という現実があります。興味深いのは、この世代の35%が「自分には十分な資産がない」という理由でエステートプランニングをしていない点です。しかし実際には、この世代は住宅資産や退職金など、相応の財産を持っているケースが多く、これは明らかな誤解です。
ミレニアル世代とGen Z(20代〜30代)
若い世代ほど、終末期の希望について家族と話し合う予定がないと答える傾向があります。Gen Zでは38%、ミレニアル世代では32%が「会話をしたことがなく、今後もする予定がない」と回答しています。
一方で、若い世代はAIへの信頼度が高く、Gen Zの46%が「エステートプランニングでAIを人間の弁護士より信頼する」と答えています。
エステートプランニングの障壁:「資産が少ない」という誤解
遺言書や信託を作成しない理由として、最も多く挙げられたのが「自分には十分な資産がない」(27%)という回答でした。しかし、これは大きな誤解です。
エステートプランニングの本質は、資産の多寡ではありません。以下のような重要な役割があります。
未成年の子どもの後見人指定
遺言書では、万が一のときに誰が子どもの後見人になるかを指定できます。これは資産とは関係なく、すべての親にとって必須の対策です。
医療に関する意思表明
医療委任状や事前指示書(リビングウィル)があれば、自分が意思表示できなくなったときに、誰にどのような医療判断を委ねるかを明確にできます。
財産管理の委任
財産管理委任状があれば、認知症や事故で判断能力を失ったときに、信頼できる人が代わりに財産管理を行えます。
これらはすべて、資産の額に関係なく、誰にとっても必要な対策です。
AIへの信頼が急上昇:2025年20%→2026年30%
もう一つの大きなトレンドが、AIへの信頼の急上昇です。
「エステートプランニングのガイダンスにおいて、AIを人間の弁護士より信頼する」と答えたアメリカ人は、2025年の20%から2026年には30%へと、1年間で10ポイント増加しました。
同時に、「AIを信頼しない」と答えた人は46%から36%へと10ポイント減少しています。
ただし、多くの人が求めているのは「完全にAIに任せる」ことではなく、「AIによる文書作成と弁護士によるレビューを組み合わせたハイブリッド型」です。AIの効率性と専門家の信頼性を両立させたいというニーズが読み取れます。
家族との会話の欠如:42%が「家族が亡くなったら何をすべきか分からない」
エステートプランニングにおいて、法的な文書を整えることと同じくらい重要なのが、家族との会話です。しかし、調査によると以下のような現実があります。
過去12ヶ月以内に終末期の希望について家族と話し合った人は、わずか31% 27%の人は「会話をしたことがなく、今後もする予定がない」と回答 アメリカ人の42%が「もし今日家族が亡くなったら、何をすべきか分からない」と答えています
この不安は、エステートプランニング文書を持っていない人では56%に上昇し、遺言書や信託を持っている人では18〜19%にまで低下します。
法的な文書の作成と、家族とのコミュニケーションは、相互に補完し合う重要な要素なのです。
日本への示唆:家族信託という選択肢
ここまでアメリカの状況を見てきましたが、日本においてはどのような示唆があるでしょうか。
日本では2018年の民法改正により、自筆証書遺言の方式が緩和され、また法務局による保管制度も始まりました。これにより、遺言書はより身近なものになりつつあります。
一方で、「家族信託(民事信託)」という仕組みも徐々に認知されてきています。家族信託は、アメリカの信託(Trust)と似た機能を持ちながら、日本の法制度に適合した形で設計されています。
家族信託のメリット
認知症対策
親が認知症になると、預金口座が凍結され、不動産の売却もできなくなります。家族信託を設定しておけば、受託者(多くの場合は子ども)が財産管理を継続できます。
柔軟な財産承継設計
遺言書では「一次相続」しか指定できませんが、家族信託では「二次相続、三次相続」まで指定可能です。たとえば「自分が亡くなったら配偶者に、配偶者が亡くなったら長男に」という設計ができます。
遺産分割協議の回避
信託財産は遺産分割協議の対象外となるため、相続人間の争いを防ぐ効果があります。
成年後見制度との違い
日本には成年後見制度がありますが、これには以下のような制約があります。
家庭裁判所への申立てと継続的な報告が必要 後見人の報酬が発生する(専門家が選任された場合) 財産管理が保守的になりがち(積極的な資産運用や不動産売却が難しい)
家族信託であれば、こうした制約なく、より柔軟な財産管理が可能です。
80代の親を持つ40代の方へ:今すぐ始めるべき3つのこと
本記事の想定読者である「80代の親を持つ40代の方」に向けて、今すぐ始めるべき対策を3つ挙げます。
親との会話を始める
最も重要なのは、親の意思を確認することです。以下のようなテーマについて、少しずつ話し合いを始めましょう。
財産の全体像(不動産、預金、有価証券、保険など) 終末期医療に関する希望 介護が必要になったときの希望 相続に関する基本的な考え方
専門家に相談する
相続遺言専門の司法書士や弁護士、税理士などに相談し、家族の状況に最適な対策を検討しましょう。遺言書、家族信託、任意後見契約など、複数の選択肢を比較検討することが大切です。
自分自身の対策も忘れずに
親の対策ばかりに気を取られがちですが、40代のあなた自身も「もしも」に備える必要があります。特に未成年の子どもがいる場合、遺言書での後見人指定は必須です。
まとめ:エステートプランニングは「愛の形」
アメリカのデータが示すように、エステートプランニングの本質は資産の多寡ではなく、大切な人への想いを形にすることです。調査でも、41%の人が「最も意義あるレガシーは思い出と人間関係」と答えています。
遺言書も、信託も、すべては「残された家族が困らないように」という愛の表現です。
日本でも、核家族化、高齢化、家族構成の多様化が進む中で、従来の「遺言書だけ」という対策では不十分なケースが増えています。家族信託をはじめとする新しい選択肢を知り、家族の状況に最適な設計を行うことが、これからの時代には求められます。
「まだ早い」「うちには関係ない」と思わず、まずは専門家に相談してみることをお勧めします。
参考文献
Trust & Will. (2026). "2026 Estate Planning Report: Key Findings and Trends." Retrieved from https://trustandwill.com/learn/estate-planning-report-2026